肚のうち

なかなか他人には言えない肚のうちを書きつづっていきます。

学歴は"あの世"まで持っていけない

宮城県の中学校の多くは、今日10日が卒業式だったようです。東日本大震災で犠牲になった生徒についても、その遺族に卒業証書が渡されたと報道されていました。災害にかぎらず、犯罪の犠牲者なんかの場合も、すでに故人となった生徒に対して卒業証書が授与されるというニュースはよく見かけます。

そういえば不登校の生徒であっても、一定期間が経過すれば、学校長の裁量で卒業させるということが横行しているようです。授業を受けなくても、何ら学習しなくても、ただ一定期間が経過しさえすれば卒業させるというのであれば、故人でさえ卒業させるという判断につながるのかもしれません。

もしかすると遺族の方々には非常に酷かもしれませんが、私はあえていいたいのです。

仮に学校はそんなことで卒業できるのだとしても、同じようにして人生を卒業できるかといえば決してそんなことはありません。学校については学校長が人為で決めることができますが、人生を無事卒業できるかどうかは天意で決められます。

学校の卒業ないしはその結果得られる学歴というのは、"この世"にいてこそ通用する世俗的なステータスであり、"あの世"にあっては何の価値もありません。"この世"でしか通用しないステータスは、この人生を仕上げるうえでは有用な道具になるかもしれませんが、そうした道具は生きている間に使わなければ無価値なのです。故人に対する卒業証書授与というのは、ほとんど学校側の(場合によって遺族も含めた)自己満足にすぎません。

残念ながら、天災であれ、事故であれ、犯罪に巻き込まれたのであれ、途中で人生を絶たれた場合には、ごくわずかの例外をのぞけば人生は仕上がりません。いや、人生が仕上がらないだけではなく、地獄の最下位に収まることになってしまうでしょう。*1

 では、まったく救いがないかというとそうでもなく、遺族しだいでは救済可能です。まず大切なことは、残された者が本物の人間として歩み、自分の人生を仕上げることです。地獄界に収まった故人の救済はその延長線上にしかないのです。

職場を守るため絶対負けられない“闘い”

大阪市交通局労働組合による選挙ビラ配りが問題になっています。このブログは、なかなか他人には言えない肚のうちを書きつづることにしていますが、この問題についてはかなりデリケートなところがあり、あまり直接的な表現ができないのが残念です。

実をいうと、私の知人にも大阪交通労働組合に入っている人がいます。そして彼の口から直接、選挙運動のためにビラ配りを行っていることを聞いています。ただし、それが正式な届け出をしたものではなかったということまでは把握していませんでした。

なぜなら、彼は私に平松氏に投票するように注文を付けることもありませんでしたし、問題となっているビラを渡すこともなかったからです(ビラを渡されれば、印紙の貼付がないことで違反ビラであることが分かったはずです)。

選挙前から、彼には、公務員の政治活動は問題があることを何度か伝えていました。ただ、活動の正確な状況がわからなかったのと、選挙の直前から選挙期間中は(おそらく選挙運動に忙しかったからでしょうが)彼と会うことがほとんどなかったこともあり、特に口出しすることもありませんでした(だから、私に非がないとはいいません)。

彼にかぎらず、法律をはじめとした世の中のルールについての認識が低く、特に悪気もなくファールをやってしまうことというのは少なくありません。少なくとも、普段からもう少し責任のある立場についていれば、そうしたことへの配慮に気を使うのでしょうが...。

責任のある立場にないという意味では、主婦やフリーター、派遣社員などは、同じようなファールをやってしまう可能性が十分あるのではないでしょうか? 政治活動だけでなく、宗教活動やサークル活動など、ほかの分野の活動でも同じことがいえるので注意が必要です。

最後に、大交の彼についてもう少し書いておきます。昨年の選挙期間中、本来であれば選挙運動以外にすべきことがあったはずです。現存する世界中の人々と未来の子供たちのことはどうでもよいので、今の自分の利権だけを守ろうとしたために今回のような事態になったのではありませんか?

くもんの先生

最近、Google AdSenseで「くもんの先生募集」の広告を目にすることが多くなりました。いわゆる公文式教室の指導者の募集です。うちの長女も現在公文式教室に通っていますが、まもなくやめる予定です。公文式は悪くありませんが、うちの長女にはちょっとあっていないようで、月謝も決して安くないのでやめることを決めました。

公文式教室の経営は大変なようです。うちの長女がやめると、それにつれて「あの子がやめるなら私もやめようかな」といっしょに通っていた子がいいだす始末で、そうなると生徒ゼロの危機を迎えることになります。先生はビラ配りなどしながら生徒を募集しているようですが、そんなに簡単に集まるわけもありません。

長女が通っている公文式教室は公民館を借りて行っています。先生もそこに通っているわけですから、公民館の利用料と交通費が固定経費としてどうしても発生します。そんなに大きな額ではありませんが、これだけ生徒が少ない状況では赤字続きになるのも無理ありません。

そういえば、公文式教室のロイヤリティは4割と聞いたことがあります。教材費も含むのであれば、ふつうのフランチャイズより高くなるのは当然といえば当然ですが、これではよほど生徒を多く集めないと経営が成り立ちそうにありません。しかも、教室の運営にはさまざまな制約があるようで、あまり工夫の余地もなさそうです。もちろん、月謝の設定を変えることなどできません。

これまで長い間その教室にはお世話になったので、やめてしまうのも心苦しいのですが、なかなか義理だけで継続できるものではありません。

中国62年の歴史

テレビの影響なのか、中国の歴史は黄河文明から四千年続いているようなことがいわれます。最近では、五千年とか六千年とかいうことさえあるようです。ところが、実際にはあの地域、すなわち支那には長い間国が存在せず、王朝だけがありました。しかもその王朝は何度も変遷し、満州人による王朝(金・清)や蒙古人による王朝(元)などもあり、決して昔から今まで歴史がつながっているとはいえません。

もし仮に、黄河文明からの中国四千年というのが正しい主張だというのなら、メソポタミア文明から続くイラク六千五百年の歴史といわなければならなくなります。そんなバカな話はありません。では、中国の歴史はいったいどれぐらいだと考えればよいのでしょうか?

まず、中国という言葉の定義から行う必要がありそうです。漢字文化圏における大昔の用法では、中国(なかつくに)というのは、自国を表すときに用いる美称でした。ですので、支那だけでなく、ベトナムや日本でも自国のことを中国と呼ぶことがありました。ですので、この「中国」という言葉は、特定の国家・地域・民族を指す言葉ではありません。

そうなると、あの支那にある中国を「中国」と呼ぶべきなのは、中華民国または中華人民共和国の略称としての中国ということになります。中華民国中華人民共和国は別の国ですから、現在につながる中国という意味では、中華人民共和国のことになります。

中華人民共和国の建国は1949年10月ですので、現時点ではまだ62年の歴史しかありません。大韓民国がアメリカから独立したのは1948年7月ですから、中国はそれより1年以上短い歴史しか持っていません。

最近は虚数を習わない?

先日会社で話題になったのですが、最近は高校で虚数を習わないか、さらっと触れる程度で記憶に残っていない可能性があるようです。本当のところはどうなのでしょうか?

話題の発端は、x3 = 1 の解がどうなるかということからでした。虚数という概念を持たないからか、因数分解ができないからかはわかりませんが、若手の社員は安直に x = 1 だと答えるのです。もう二つ解があるだろうといってもピンとこなかったようです。

x3 = 1 は、1 を移項して x3  - 1 = 0 にした上で左辺を因数分解すると (x - 1)(x2 + x + 1) = 0 になるので、解のひとつは x = 1 ですが、残りのふたつは x2 + x + 1 = 0 という二次方程式を解く必要があります。結果、x = (-1 ± √3 i) / 2 という虚数解が得られます。± があるので虚数解はふたつあるわけです。

ここで、その若手社員は「i って何ですか?」と尋ねてきました。それで、虚数というものを知らないことが判明したのです。虚数は、職業によっては知らなくても何ら問題ないわけですが、彼の仕事の場合は、少なくとも知っていて無駄になるということはありません。知らないことで、できることにかなり制約ができてしまっていたのではないかと思います。

よく、学校の勉強をやらない理由を作るために、「そんなことを覚えて、生活上何の役に立つのか?」と主張する人たちがいます。そういえば、私の高校時代の社会の先生も数学についてそんなことを言っていました。しかし、習得してみて初めてその使い道が見えてくることというのは少なくないのです。少なくとも、学校で習うことでできないことが多ければ、それだけ職業選択の幅がせまくなります。それは、まさに生活に直結することなのです。

やっとまともな卒業式に...

娘が通う小学校では、これまで君が代斉唱がなかったのはもちろん、式典のなかで校長先生が卒業生ひとりひとりに卒業証書を渡すということさえ行われていませんでした。卒業証書は教室で担任の先生が配っていたというのです。

それが、今年からは、ちゃんと校長先生がひとりひとりに卒業証書を手渡すことになりました。そして今日、娘が「君が代の練習がある」といっていました。完全にまともになるかどうかはわかりませんが、少なくともまともな卒業式には近づいたようです。

これというのも大阪市の市長が変わったからかもしれません。現市長に関しては、私は必ずしも全面的に支持するわけでもないのですが、こうした変化をもたらしたとすれば、それは非常に大きな成果ではないかと思います。

そういえば、娘の5年生のときの担任の先生は外国人でした。公立小学校の担任の先生が外国人だというのは、私たちの子供のころには信じられないことでしたが、今はふつうにあるようです。その先生も今は6年生の担任になっているようです(娘の担任ではありません)。ちょっと前に、社会(歴史)の授業で日露戦争のあたりをやっているといっていましたが、まともに授業ができているのかどうか興味があります。

まさかないとは思いますが、君が代斉唱時の不起立のような不祥事を起こして、せっかくの卒業式をぶち壊しにすることがないように願います。

相手の立場になって考える

多くの人は、人間関係において、「相手の立場になって考えなさい」と子供のころから教育されたのではないでしょうか? 実際、それは有効な方法です。ただ、残念なことに、その有効な方法は、せいぜい相手の気分を害さないため程度の目的にしか使われていません。

実際には、もっと多くのことに応用できるはずです。たとえば就職(転職)活動を考えてみましょう。多くの人は、履歴書の書き方や面接での受け答え、身だしなみなど、自分に関することはいろいろ工夫をするわけですが、意外に求人・採用する側の立場になって考えてみることはしないようです。

具体的な話をしましょう。35歳の女性が、求人情報では年齢や性別は不問となっていたため、応募するために電話をしたとします。ところが電話で採用担当者と話したところ、その会社では30歳以下しか採らない、あるいは男性しか採らないといわれたとします。求人情報と食い違っているため、応募した女性は怒りがおさまりません。

ところが、世の中のルールをよく調べてみると、求人を出した企業の事情が見えてきます。つまり、求人や採用で年齢制限を課すことは禁止されており、性別に制限を課すことも禁止されています。しかし、そうはいっても、欲しくもない人材を採用することなどあり得ないのです。それであれば、採用する気もないのにわざわざ面接を行い、求人企業と応募者それぞれの時間を(応募者の場合は交通費や写真代等の実費も)無駄にするぐらいなら、(本当は違法でも)電話ではっきりいってあげる方がお互いにメリットがあります。

 国際関係を理解する上でも、相手の立場になって考えるのは有効な方法です。結構有名な話ですが、地図を南北さかさまにしてみると、東アジア情勢がよく理解できるようになります。

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 Google earthで、東アジアを南北さかさまにしてみたのが上の画像です。この地図を見ながら、中国やロシアの立場になって考えてみましょう。太平洋に進出しようとすると、非常に邪魔な存在がありますね。この邪魔な存在を何とかしないかぎり、自分たちの未来はないと考えるのがふつうではないでしょうか?

相手の立場になって考えるというのは、まだまだ応用価値がありそうです。